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Creating Japanese Buddhism in the West 欧米における日本仏教像の創作

The following is a speech I gave on the occasion of the 8th Japanese Speech Contest for University Students in the UK in 2013. As a finalist, I had the opportunity to talk to a 150+ people audience about my interests. Scroll down for a summary in English.

speech contest poster
From the official poster

皆様、こんにちは。私は、ケンブリッジ大学のヴェンツ・パスカルと申します。本日は、「欧米における日本仏教像の創作」という題でお話したいと思います。どうぞよろしくお願いします。

まず、本題に入る前に私の経験を少しお話しましょう。

私はもともとドイツ出身で、ドイツの高校に通っていました。その高校にとてもいいドイツ文学の先生がいらっしゃいました。生徒たちに向かって、その先生はいつもこういうふうにおっしゃいました。「あなたたち、発表するなら、自分がまだ感心を持っていないテーマを選びましょう」と。えっと思われるでしょう。なぜ先生はそんなことをすすめられたでしょうか。それは、関心のないテーマの発表を準備しているうちに新しい関心が見つけられるからです。私は、たしかにそのように発表のおかげで初めてシラーというドイツの有名な詩人に興味を持ちました。

しかし、その先生のおっしゃることは、学校の勉強だけではなく、異文化の理解にもふさわしいと私は思っています。私たちヨーロッパ人が初めて日本文化と触れ合ったとき、そして日本人の皆様が初めてイギリスの文化と触れ合ったとき、やっぱり好きだ、そして全然分からないという二つの種類の要素があったでしょう。本日、私はそのドイツ文学の先生に見習って、そういう異文化の全然わからない要素の勉強をすすめたいと考えています。その例として欧米における日本仏教像の創作、つまり欧米では日本仏教のイメージがどのように作られたか、そのテーマを考えましょう。

日本仏教といえば禅。多くの欧米人がそういうイメージを持っているでしょう。私も昔そういうイメージを持っていました。しかし、実際には皆様がご存知のように、日本仏教の中でいろいろな宗派があり、禅はその中の一つにすぎません。日本文化庁の2010年の調査によると、お寺の数にしても信者の数にしても浄土系の仏教が第一位を占めています。浄土系の信者の数は、1930万人、禅系の6倍です。そして日蓮系も禅系よりはるかに信者の数が多いです。それなのに、欧米では禅だけが日本の代表的な仏教として位置づけられました。それはなぜでしょうか。まず、欧米で非常に有名になった鈴木大拙の仏教論を考えてみましょう。

鈴木大拙の名前を聞いたことがおありでしょうか。鈴木大拙は、1870年に金沢で生まれた日本の思想家です。鈴木は、東京大学を卒業してから、長年アメリカのイリノイで仏教の勉強を続けて、日本の禅を欧米で普及させようとしていました。そのために、鈴木は、自分なりに禅を改めて解釈しました。その解釈は、禅が仏教の宗派ではなく、むしろ普遍的な経験だということです。そして、その禅という経験は、全部の宗教の根本をなしている、茶の湯などの日本の芸術の根本もなしているということです。つまり、禅以外の仏教も禅に基づいているということになります。

では、鈴木の考えでは、禅はいったいどういう経験なのでしょうか。鈴木によると禅とは、火を温かく、水を冷たく感じること、つまり現象をそのまま直接経験することです。結局、『禅と日本文化』などの鈴木の本が、欧米の国々で普及しました。それにつれて、禅が何よりも日本仏教と日本文化全体を代表するという考え方も普及しました。しかし、なぜ鈴木の本が欧米ではそんなに人気を得たのでしょうか。そこで、19世紀末からの欧米における宗教研究を考えてみましょう。

欧米の思想家が日本仏教を確実に研究し始めたのは、19世紀末でした。明治時代の日本が開かれ、欧米との交流が盛んになったのが背景です。その当時、欧米では多くの思想家は、キリスト教のような伝統的な宗教に対して不満を抱えていました。例えば、人間がみんな平等であるはずなのに、カトリック教会のような宗教団体の中で序列があり、メンバーが平等に扱われていないこと、それを強く批判しました。また、神様の存在の証拠がないのに、神様を信じることも批判しました。イリノイで鈴木に教えたポール・ケーラスのような思想家は、その不満を持って、序列も信仰もない新しい宗教を探っていました。

しかし、いうまでもなく、研究者がそんな特別な興味を持っていたら、その興味に合わない宗教を見落とすことになりがちです。日本仏教に関していえば、浄土教を見落とすことになってしまいました。なぜかというと、浄土教において信仰が重要だからです。浄土教によると、自分の努力では悟りはできないので、仏様に頼り、浄土という天国で生まれ変わることを期待するしかありません。浄土教の信者は、ただ仏の名をとなえます。それに対して禅では、個人の努力が認められ、座禅のような修行が重要です。そのため、欧米の思想家は禅に関心を持ち始め、そこで鈴木大拙と出会いました。鈴木の禅は、宗教団体に関係のない、信仰もない普遍的な経験としての禅、だれでもできる禅です。そのため、鈴木が欧米で人気を得ました。鈴木は、僧侶、つまりお坊さんではなかったので、禅を自分なりに解釈しました。それはそれで問題ないと思いますが、ただ鈴木の考え方を日本の代表的な考え方として受け入れるのは、誤まっていたと私は指摘したいと思っています。そして禅以外の日本仏教が欧米ではまだあまり知られていないことは、とても残念です。

以上で紹介した日本仏教の例は、異文化の理解や解釈をする上での問題点を示していると思います。異文化の気が引かれる要素だけに集中しながら、そうではない異文化の要素を無視するという傾向があります。しかし、そのドイツ文学の先生のアドバイスに従ったら、その傾向を避けることができます。皆様、異文化の中で心を寄せにくい要素があります。その要素をあえて勉強してください。それは私の願いです。皆様にとっては、日本仏教は今まであまりご関心のないテーマだったかもしれませんが、私のスピーチで少しでも興味をお持ちになったとしたら、幸いと存じます。以上で、私のスピーチを終わらせていただきたいと思います。ご清聴どうもありがとうございました。

Summary: That Japanese Buddhism is mainly Zen is a widely held misconception in the West. It is but one form of Buddhism among several and is actually less popular than Pure Land Buddhism in contemporary Japan. Why is it then that only Zen came to be considered representative of Japan in the West? In my speech, I discuss firstly the attitudes of Western scholars of religion in the late nineteenth century and secondly D.T. Suzuki’s discussion of Buddhism which was extremely influential in the West throughout the twentieth century. Many Westerners at the end of the nineteenth century looked for an alternative, scientific religion that was not institutionalized and not based on faith. In their search, they tended to neglect those religions that did not meet their criteria. In the Japanese case, while they were fascinated by Zen, they neglected Pure Land Buddhism because of the latter’s emphasis on faith. Suzuki hit the nerves of these Western intellectuals. He had studied in the US for many years and was strongly influenced by Western religious thought. In such works as Zen and Japanese Culture, he reinterpreted Zen as a universal experience that was the base of all religions. For him, Zen was to experience things directly as they were. He further argued that all Japanese arts, such as the tea ceremony, were based on this experience of Zen. Thus, as Suzuki’s books became popular, so did the notion that Zen was representative of Japanese Buddhism and Japanese culture as a whole. However, although original, Suzuki’s thought was never fully representative of Japanese Buddhism.

The history of Western interest in Japanese Buddhism exemplifies fundamental problems of intercultural understanding, especially the tendency to focus on those aspects of a foreign culture that immediately appeal to one while neglecting those that do not. I suggest that it may be more worthwhile to intentionally study those aspects of a foreign culture that one cannot easily relate to.

Reading suggestions:

  • Amstutz, Galen 1997. Interpreting Amida. History and Orientalism in the Study of Pure Land Buddhism. Albany: State University of New York Press.
  • Porcu, Elisabetta 2008. Pure Land Buddhism in Modern Japanese Culture. Leiden: Brill.
  • Sharf, Robert H. 1995a. “The Zen of Japanese Nationalism” in Lopez, Donald (ed.). Curators of the Buddha. The Study of Buddhism under Colonialism. Chicago: University of Chicago Press. pp. 107-160
  • Sharf, Robert H. 1995b. “Whose Zen? Zen Nationalism Revisited” in Heisig, James W. and John C. Maraldo (eds.). Rude Awakenings. Zen, the Kyoto School and the Question of Nationalism. Honolulu: University of Hawai’i Press. pp. 40-51
  • Suzuki, Daisetz T. 2010. Zen and Japanese Culture. 2010 edition with foreword by Richard Jaffe. Princeton: Princeton University Press.
Posted in Japan, philosophy-religion

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